「1988年の思い出」

 

1988年は私が初めて米国に住み始めた年だ。あれからもう30年もたったのか。厳密に言うと1997年から3年間日本に戻っていた時期があるので、在米の延べ年数は27年だが。

 

1988年の春、私は日本で大学院博士課程最後の年を終えてそのまま大学院に居続けてもオーバードクターになるだけだった。社会学研究者として研究職につけるのは一体何年後になるのか見当もつかなかった。指導教官にオーバードクターになって迷惑をかけたくなかったし、社会学研究者にならないなら他にどういう道に進んだらよいか悩んでいた。とりあえず、以前からの夢だった米国留学を実現するため米国に飛び立った。

 

ペンシルバニア州の東部でニュージャージー州との境にイーストンという市があり、そこにラフィエット・カレッジがある。ティーチング・アシスタントとして日本語を2年間教える代わりに、授業料無料で何を勉強してもよく、住宅・食費無料という契約で1988年の夏に米国生活が始まった。

 

1988年の夏はソウル五輪だった。日本以外で初めて見る五輪のテレビ放映は興味深かった。公共放送のNHKとは違って、NBCという民間放送局が独占放映で何しろ視聴率命という感じ。人気のある競技の有名選手ばかり長く追っていて、無名選手は米国の選手でも全然映らない。ましてや外国人選手は視聴率の取れそうな選手しか映らない。日本の選手の活躍が全然見られないので、日本の親に日本で録画した五輪ハイライトのビデオテープを何本も送ってもらった。

 

特に印象に残ったのは陸上短距離走の金メダリスト、フロレンス・ジョイナー。とてもおしゃれで長い爪にきれいなマニキュア、長い髪をなびかせて走る。それも百メートル1049の世界新記録は今も破られていない。彼女はその時28才。当時日本の陸上界では女子短距離走のピークは20才位と言われていた。えー、全然違うじゃないか、28才で世界新記録が出るのか、日本の女子陸上選手たちは騙されたなあと思った。

 

これ以外にも感じるものがあった。いろんな五輪競技で世界の女子選手はママさん選手が多いが、それに比べて日本の五輪代表選手は未婚の若い選手ばかり。マラソン選手も結婚で引退なんて雰囲気があった。女性は結婚したら選手生活とは両立しないから辞めよという感じで、日本社会の息苦しさが五輪を見ていても見て取れた。

 

9月になって大学生活が始まった。ラフィエット・カレッジはリベラルアーツ・カレッジと呼ばれる大学院をもたない4年制の教養大学で、学生数2千人程度という小規模な大学だ。アイビーリーグと呼ばれる米国のトップ層大学には及ばないが、学生の質はかなり良い。大規模大学を好まずアットホームな雰囲気を好む学生やその親がこの大学を選ぶようだ。

 

ただ、私にとっては大学院のない大学で社会学の授業をとっても簡単すぎておもしろくないだろうことはわかっていた。米国生活にも英語にも慣れていないこともあり、最初の学期は自主研究をして、あとは適当になにか授業をとっていた。ちなみに2学期目は会計学の授業をとった。もし、社会学研究者の道をやめて方向転換するなら、なにか専門職しかないなあと思っていた。その一つに会計士や税理士という道が選択肢にあった。それでどうせ無料で授業をいくつでもとれるのだから会計学にしようと思い、それを勉強し始めたのが大きな転換期になった。

 

それから友人を作るために大学のクワイア(合唱団)に参加した。米国の大学には10月の初めにペアレント・デーというものがあり、学生たちの親が大学生活の見学に来る日だ。いろんなイベントが企画されており、合唱団は合唱を披露するためにミュージカルのレ・ミゼラブルからの数曲を練習していた。私はメゾ・ソプラノの一人だった。大学は合唱団の為に専門の合唱指導員を雇っていた。課外活動の指導にプロを雇うのは結構普通のことのようで、フットボール部はもちろんプロのコーチを雇っていた。

 

11月の最初の火曜日には大統領選挙があり、共和党のブッシュと民主党のデュカキスが争っていた。夏からずっと選挙戦の報道を生で見ていて米国大統領選挙のスケールの大きさに圧倒された。そのジョージ・ブッシュ(パパ・ブッシュ)は今年亡くなった。

 

11月の感謝祭には大学の法学の教授宅に招待された。戦後日本の憲法を作成する時にもかかわったことがあるという権威のある教授で、奥様は日本人。二人息子がいて一人は高校生で大学は空軍士官学校を希望していると言っていた。

 

12月初めには合唱団のクリスマス・コンサートがあり、「アニュス・デイ」とか「キリエ」とかの宗教曲と、庶民にもなじみがあるクリスマス・ソングを歌った。大学周辺の近隣住民や学生の親たちが主な観客だ。コンサートの後はホールにはクリスマスのクッキーや飲み物が用意されてて、合唱団と観客が気軽に触れ合えるようになっていた。

 

クリスマス休みにはロサンゼルスへ行った。大学一年の時ホームステイで数日間お世話になったご夫婦の家を訪問した。ペンシルバニア州の冬はとても寒いのでカリフォルニア州は暖かいから避寒になっていいだろうと思っていた。しかし、ロサンゼルスのそのお宅は日頃そんなに寒くないから暖房をあまり使わないようで家の中は結構寒かった。冬は暖房をガンガン使って家の中を暖かくするペンシルバニアの家の方が暖かかった。

 

1989年に入るとすぐ昭和天皇崩御で平成時代が始まった。平成の30年間ももう数カ月で終わろうとしている。新しい元号になったら、昭和生まれの私たちは二元号前の世代になるということだ。新元号世代の人たちにとっては、昭和世代は私たちが感じる明治時代の人みたいな感じになるのだろうか?