令和元年度「芸術たのしみ広場開催業務」(市町村分野)実績報告

多くの方の御来場誠にありがとうございました。

◆シンポジウム「写真表現の楽しみ」2019
令和元年10月20日(日)13:30〜
倉吉文化活動センター


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10月20日(日)
11:50 シンポジウム打ち合わせ会(白壁倶楽部)
12:30 昼食(白壁倶楽部)
13:30 ズン・シ・クォン写真展ギャラリートーク(ズン・シ・クォン氏)


13:40 歓迎ミニコンサート(出演/鳥取オペラ協会ソリスト)
    ソプラノ/鶴崎千晴 ピアノ/兼田恵理子
会場移動?1F 第1活動室(シンポジウム会場)

14:00県文連主催『芸術たのしみひろば』シンポジウム〜写真表現の楽しみ〜

初めに県文連会長『小谷幸久』が挨拶

倉吉文化団体協議会会長の計羽孝之が挨拶

シンポジウム参加のパネラー紹介(韓国江原道春川写真家協会長「ズン・シ・クォン」氏、米子市在住の写真家「福島多暉夫」氏、北栄町在住の写真家「小矢野貢」氏、琴浦町在住の写真家「林原滋」氏。
シンポジウムのコーディネーターは倉文協会長の計羽孝之が担当。

□シンポジウム・スタート

コーディネーターの計羽孝之氏より、シンポジウムの目的について次のように述べた。
「韓国江原道写真作家協会の鄭(ズン)時権(シ・クォン)氏をお招きし、倉文協所属の写真作家たち及び県内写真作家と、『写真表現の楽しみ』をテーマに意見交換会を行います。写真は現代最先端写真界で、現代美術の範疇で語られています。しかし、アートとしての写真は混沌の中にあります。そこで今回は、写真が誕生して以降、写真家たちは一体何を撮ってきたのか、その潮流を反芻し、現代の「写真は創る時代」の写真表現の楽しみ方を模索してみたいと思います。」とのことです。そして引き続き、基調提案が行われました。

 

[1]基調提案

コーディネーターの計羽孝之氏より、写真の黎明期から、現代に至る写真の歴史を俯瞰した提案が、写真家たちはその時代時代に、社会の要請や時代背景で何をテーマとして撮影して来たのかを、11の時代に区分して説明されました。それは@風景写真の時代A旅行写真の時代B芸術的直観力の時代Cリアリズムの時代・D芸術写真の時代Eリアリズム脱却の時代Fフォト・ジャーナリズムの時代G機械の時代Hイメージの時代Iパーソナルの時代J写真は創る時代とし、現代写真が混沌の世界に至った軌跡を説明されました。(添付資料の基調提案参照)

[2]パネラーの自己紹介を兼ねて、自作世界を語っていただきました。

・ズン・シ・クォン氏は「花火を撮る」。撮影のエピソードを交えた技法の紹介。
・福島多暉夫氏は「私の風景写真に求めるもの」について語っていただきました。                
・小矢野貢氏は「オーロラを撮る」ためのノウハウを、具体的に語っていただきました。
・林原滋氏は「風景を創る」とし、なんでもない風景を絶景に撮るためのスタンスを語っていただきました。

 

[3]写真の機能を活かした画像づくりについてパネラーに語っていただきました。

 

 現代のデジタルカメラは、白黒写の時代の、暗室作業をマスターするのに長い年月が必要であったが、現代ではITが組み込まれたカメラロボットが自動的に処理するため、誰でもが美しい写真が撮れる時代になっていること。撮影機能の進化が、新しい写真の視点を開いて行ったこと。フィルム時代には考えられなかった画像が取れること。それらのカメラの機能が進化したため、写真芸術は写真と言うテクニックを使い、何を考え、表現者自身が何を主張し、何を作品として昇華させるかの問題になっているとのことでした。絵画作品(油彩画)においては、基礎技能(デッサンのスキル)がなければ、そもそも絵は描けないが、写真の場合はその基礎技能の部分を全てカメラがやってくれるため、誰がシャッターを押しても、美しい写真は撮れる時代でもある。そのため、単に機械(カメラ)が作り出す画像に「おんぶにだっこ」の写真が氾濫している。つまり、進化した機能を使った写真だけでは、作品にならないとの事です。では、どうすれば写真が作品として表現できるようになるのかとの問いがあり、その回答としてパネラーに各自の方法論をお聞きした。


[4]写真家の独自表現の世界及び写真でしか出来ない表現について語っていただきました。

 

・小矢野氏からは、もともと実用として、伝えるべき農業技術を農家の皆さんに伝達するという目的で動画撮影を始めていた。そのため、云いたいことを如何に伝えるかのテクニックとして、カメラワークを学び、伝達項目の整理(5W1H)をし、それに準じたカット割りを考え、遠景撮影・中間・近景で何を主張するかのシナリオ作りをして来た。そして、動画表現の時間を圧縮し、数枚の写真で表現する技法の模索、そして一枚の静止画にすべての主張をまとめ上げる写真の世界に入っていったと話された。
更に、近年取り組んでいるカナダのイエローナイフでの撮影秘話を話して頂き、写真撮影の喜びを示されました。イエローナイフは、まさにオーロラの聖地であり街の明かりが全く届かない場所にあるため、展望が開けどの方向からオーロラが出現して美しく見ることが出来るとの事です。


 

・林原氏は、風景写真の専門家ですが、誰でもが求める絶景を撮るのではなく、自分の住む町内外の平凡な風景の中に、自分の琴線に触れる風景を見つけ出し、その美しさを強調するための撮影工夫が総てとの事です。その撮影工夫の一端を紹介されましたが、思いもよらないもの(懐中電灯を10種類等)であり、撮影エピソードを聞くとなるほどと得心の行くものでした。例えば、夜陰の中に桜の花だけが白く映っている幻想的な光景も、名所にある夜間照明とは全く異なる美しさを表現できているものです。このような写真は、まず、何を表現したいのかのテーマがあり、その表現を可能にするため何をどうするかの試行活動があり、幾度となく撮影グッツ(懐中電灯+色フィルター)の模索の後に表現したかった画像を作り上げていくとの事です。現像ソフト(フォトショップ)に頼らない撮影姿勢との事です。

 

・福島氏は、写真歴50年以上の大ベテランであり、フィルムの白黒時代から、カラー時代、そしてデジタル写真時代の最先端を歩み続けた方であり、写真誕生から180年の流れを熟知した方です。そして、現代の写真技術は、表現力を高めるための道具に過ぎないとのことであり、写真表現をするのは人間であり、機械に振り回されるなとの基本姿勢を示されました。したがつて、パソコン上で現像ソフトを使っての作品作りは常道であり、そのスキルが問われる時代との認識も示されました。と言う事は、写真は様々なテクニックの習得以前に、芸術表現者としてのリテラシー(様々コミュニケーション、例えば、ボディランゲージ、画像、映像等を適切に読み取り、適切に分析し、適切にその媒体で記述・表現できること)が問われると力説された。つまり、写真作品はシャッターを切って偶然に生まれるものではないと言う事であり、リテラシーを得るためには様々な芸術作品に接したり、大袈裟に言えば自分の人生をどのように生きるか、美しい人生を如何に描くかに関わっているとの事でした。
ともあれ、現代では写真が氾濫している。単にシャッターを押せば写真は出来るが、それは時の記録に過ぎず、思い出を凍結させる記念写真であったりする。そもそも、写真は全て記録であり、それをどう扱うのかで、芸術の範疇にはいったり、商業媒体になったり、コミュニケーションツールになったりする。写真そのものを楽しむ風土は世界中に氾濫し、新しい社会秩序を構築したりしている。そんな大げさでなくても、個人的に写真を楽しむ方法は沢山ある。


[5]写真を撮る楽しみについて、パネラーの福島氏がまとめてくださいました。
 スマホの普及は、市民のコミュニケーションの最も有力なツールとして普及してしまった。これまで人間が持つコミュニケーション能力は、過去のどんな時代よりも強力な武器を持ったことになる。スマホのカメラ機能(写真や動画)の進化は、スチールカメラを遥かに追い越し、プロ用カメラの機能に限りなく近づいた時代である。そんな中で、写真を撮っては、写真芸術に近づこうと考えたり、自分の表現だなどとしなくても、写真は十二分に楽しむことが出来る。現代は、なんでもありの混沌とした時代であり、その全ての楽しみに、全ての人に価値ある楽しみだと思える。社会に対して表現活動する場も、ギャラリーでなくても、様々にチャンスとその場が拡大している。インターネット上のギャラリーは大繁盛だし、フェイスブックでは万人に開放それた宇宙的空間である。おおいに、写真を楽しまれることを期待しているとの事です。


[6]コーディネーターの計羽氏が、シンポジウムのまとめとして次のように話し、終了した。
私たちは誰に認められようと、認められまいと「芸術家としての生き方をすべき」です。芸術とは哲学の一分野であり、人間が如何に美しく生きるかを模索することが重要なのだ。私たちは毎日の生活の中で、常に人生の選択を強いられ、悩みながら決定し続ける生活をしています。良い選択かどうかの判断よりも、選択し続けることが大切であり、それこそが、人生になるのです。ですから人生にプロフェッショナルもアマチュアもないのです。それと同じように、芸術家に玄人とか素人との線引きは不要なのです。しかし、芸術家としての生き方(より美しい生き方を求める事)をしない人生は、「死に至る病」(キルケゴール)だと言われます。事の大小や様相の異なることは多々あっても、常に拮抗する対抗軸を持って、二つの対立概念をより高次の概念によって、統合する生き方をすべきだと、短絡的に述べ、写真を作品として仕上げることこそが、「写真を撮る喜び」ではないかと結論されました。

○参加者   合計 42名 ミニコンサート25人 シンポジウム 17人
       (県文連市町村分野会員 15名、外 27名)

 

○事業実施の成果 「写真はそのままのモノばかりと思っていましたが、そうではないと初めて分かりました。」とのアンケート回答がありましたが、写真が作品となり、芸術表現が可能な世界があると理解していただけた。そして、基調提案に示された写真に求められてきた歴史的背景について、初めて知ったと、写真歴50年のベテラン聴衆からのことばが、このシンポジウムを開催した意義があったと感じました。さらに、写真家たちが色々な思いを持ち写真表現をされていることが理解できたとの意見、「パネラーそれぞれが、異なる姿勢で写真に取り組んでおられるのが、とても参考になりました。写真とは何か、どう取り組んでいくのかを考える素晴らしいシンポジウムでした。」とのアンケートコメントが総てを語っていると思いました。当日のミニコンサートの開催についても「音楽との組み合わせは良かった。」との評価もいただきました。 最後に福島氏が『「写真は記録、思い出。」正にその通りですね。その写真も素晴らしい。』との言が、写真の楽しみを如実に物語っていました。



○課題 何と言っても参加者の少なさです。広報にはかなり努力はしましたが、写真作家ではなく写真愛好家を対象としたため、内容が一般受けしなかったことが、動員数減の原因だと思いました。しかし、写真を撮るだけで「写真作家」然として、写真に自己を反映させられないのに気が付かない愛好家の多さには、このシンポジウムで扱う内容を学んでいただきたいとの思いがつのります。パッと見で、一瞬で面白さが伝わるもの、インパクトがあるものを追いかけてばかりせず、じっくりと見ていくことで様々なことが発見されるものを求めてほしい。現代の写真家は、様々な技術を工夫し、それを使って自分にしか撮れないものを追い求めているのです。テクノロジーの進化と共に写真は進化してきた歴史をしり、時間や記憶が持つ、深い意味を明らかにしたり、新しい物語を描いたり出来るのが現代の写真ではないだろうか。 今後は、県域写真団体と共催するなどし、必要な人に必要なリテラシーを届け続けることの重大さを噛みしめています。